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広島高等裁判所岡山支部 昭和47年(う)198号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

論旨第一、二点について。

所論は、原判決によれば、本件の場合被告人は後退燈をつけ、警音器を吹鳴して自車の進行を警告し、他車において後退燈を確認し得る位置まで後退したうえ、自車の左右、後方を注視し、周囲の安全を確認して後退すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠つたとしているのであるが、被告人は自車を後退させるに際し、切りかえしを始めた当初から後退燈による合図を継続しており、また当時本件駐車場内では移動、進入する車両もなく、歩行者もいなかつたから警笛を鳴らす必要はなかつた。当時被告人の車両は本件駐車場の南側事務所寄りに後部をやや西に振つて南向に斜めに駐車していたもので、西側入口より進入する車両であれば、後退進行する被告人の車両の後退燈を容易に発見できる状態であつた。被告人は自車を後退させるに際し、発進前にバックミラーによりまたは直接うしろを振り向いて後方を確認し、発進後二、三回切りかえ操作を行なうときにも自車両側のバックミラーで後部を確認し、最終の切りかえしを行なつた後、五ないし一〇秒間停止し、さらにバックミラーで後部を確認しつつ時速二ないし三キロメートルで後退したものであつて、被告人には何ら過失はない。むしろ本件においては、駐車場に進入する車両の方に、駐車場内に駐車中の車両がいつ発進して出てくるかわらない状況にあるのであるから、右車両の状況に十分注意し、徐行していつでも直ちに停車できるような方法で進入すべき注意義務があるにもかかわらず、被害者は徐行せずまん然時速一五なないし二〇キロメートルで進入してきたため、被告人の車両の後退燈に気付かず、これと接触するに至つたもので、本件事故の原因は被害者の徐行義務違反にあるというべきである。また原判決は、本件衝突事故によつて被害者に対し安静加療約二週間を要する本態性高血圧症亢進の傷害を与えたと認定しているが、血圧が多少上昇したというに過ぎないいわゆる一過性血圧亢進のごときは、業務上過失傷害罪の予想する傷害には該らないというべく、かりに右傷害に該るとしても、血圧亢進と本件事故との間に困果関係は存しない。すなわち、被害者は本件事故前から高血圧症の治療を受けていたものであるが、その血圧亢進が本件事故によるものか、薬の効果が減少したことによるものか明らかでないのみならず、本件事故当時は厳寒の時期にもあたり右血圧亢進は気候の影響によるとも考えられ、結局本件事故と傷害との間には因果関係は存しないというべきである。以上の各点において原判決は採証の法則ならびに事実の認定を誤つたもので右誤りはいずれも判決に影響を及ぼすこと明らかであるというにある。

よつて、記録を精査し当審の事実取調の結果をしんしやくし、まず本件注意義務および過失の内容について検討するに、被告人は、本件駐車場に駐車中の自己の車両(日産サニー一、〇〇〇cc小型普通貨物自動車、以下被告人車と略称する。)を後退進行させるに際し、後叙のような現場状況からみて、後退燈をつけるべきはもちろんのこと、警音器を吹鳴し、被告人車の左右後方、ことに西側出入口から同駐車場に進入する車両の有無動静を注視するなど、周囲の安全を確認して後退すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、後退燈をつけただけで、警音器も吹鳴せず、左右両側の駐車車両との接触に気をとられて、後方ことに西側出入口方面の確認を十分しないまま後退した過失により、折柄同出入口から同駐車場に進入東進してきた小河原春雄運転の車両(スズキ三六〇、軽四輪乗用車、以下被害車と略称する。)の右側運転席ドアー取つ手附近に、被告人車左側後部角を衝突させたものであることが明らかである。すなわち、同駐車場は岡山東芝商品販売株式会社事務所前(北側)の南北一二、五メートル、東西三八、三メートルの同会社敷地を利用して設けられたもので、同敷地の南北両側が約四、五メートルの通路を挾んでそれぞれ自動車置場になつており(いずれも西側出入口からの進入車が駐車しやすいように、やや西向に斜めに白線で各車両の置場が区画標示されている。)、その西側、北側にそれぞれ一ケ所づつ出入口があるが、西側出入口の両側はブロック塀になつているため、これにさまたげられて、同駐車場南側自動車置場からは、同出入口から進入する車両、ことに同出入口前の道路を北進して右折進入する車両を、これが同出入口に差しかかる前に確認することは不可能な状態であること、当時被告人車は同出入口から約七、八メートル東側の同自動車置場白線区画内に後部をやや西に振つて斜めに駐車していたが、そのほかにも同駐車場の南北両側にはそれぞれ四、五台の車両が駐車し、被告人車の両側にもそれぞれ約六〇センチメートルの間隔をおいて併列駐車中の車両(西側の車両は、被告人車よりやや大型のライトバン一、二〇〇cc)があつたことなどが認められるところ、以上のような現場状況のもとでは、いつなんどき駐車中の他の車両が発進し、また前叙各出入口より同駐車場に進入してくる車両があるやも知れないのであるから、被告人車を後退させるにあたつては、誘導者等の居ない本件のような場合には、まず後退燈をつけて合図すべきはもちろんのこと、さらに右後退燈を確認することが不可能もしくは困難である方向から被告人車の後方に接近してくる車両、例えば同駐車場の中央道路を東から西側出入口に向う車両との関係で警音器の吹鳴が当然必要であるのみならず、一応これが確認可能と考えられる方向から被告人車の後方に接近してくる車両との関係においても、現場の状況などからみて同車両運転者においてすみやかにこれを確認し、危険に対処しえないことも予測されるような場合にはやはり警音器を吹鳴しなければならないものと考える。当時被害車は同駐車場西側出入口前の道路を北進して同出入口に至り、同所より右折して時速約一五ないし二〇キロメートルで同駐車場に進入東進しようとしており、被告人車もまた時速約三キロメートルで、後退燈をつけて後退しようとしていたところであるが、本件衝突地点が、同出入口から約七、六メートル被害車が東進し(但し右は被害車の右側取つ手附近までの距離)、被告人車が約一、二メートル北西に後退した地点であることからみて、計算上被害車が同出入口に到達し、同駐車場に進入を開始したのとほとんど同時に被告人車も後退を開始したことが明らかであり、その後一、五秒前後で衝突するに至つているのである。しかして右の場合、被害者としても同出入口に至つた際、被告人車の方を注視しておればその後退燈の確認は必しも不可能ではなかつたと認められるのであるが(これに反する原審証人小河原春雄の証言は信用できない。)、前叙のとおり同出入口から被告人車の駐車していた場所まではわずか七、八メートルに過ぎず、かつ当時駐車場内には被告人車の西側に近接してライトバン一、二〇〇ccが駐車していたほか、南北両側にそれぞれ四、五台の車両が駐車していたのであるから、被害者としては、同駐車場全般の状況に気を配る間、一瞬被告人車の後退燈の確認が遅れてそのまま被告人車の後方に接近してくることも十分考えられるところであり、従つて本件の場合被告人にかかる事態をも予測して警音器を吹鳴すべき業務上の注意義務があることは明らかである。また被告人は当時被告人車の西側にライトバン一台が駐車していたとはいえ、必ずしも後方確認が困難であつたとはいえないにもかかわらず、後方の確認を十分しなかつたことは、被告人が警察、検察庁、原審公判廷を通じ一貫して認めているのみならず、被告人は被害車に衝突するまで、これに全く気づいていない事実に徴しても明白である。もつとも、本件においては所論指摘のとおり被害者にも若干過失があつたことは否定できないところであるが、時速一五ないし二〇キロメートルという速度は、被告人自身も、駐車場内の車両台数にもよるが、日頃右の程度の速度で駐車場に進入していることを自認しており、当時においてもこの程度の速度で進入する車両のありうべきことは当然予測しえたものと考えられる。なお原判決には、被告人車からは同駐車場西側出入口から進入してくる自動車は自車西側に駐車するライトバンに視界を妨げられて見とおすことができない状態にあつたと認めた点に事実の誤認があり、また「他車において自車の後退燈を確認しうる位置まで自車を後退したうえ」、自車の左右後方を注視し、周周囲の安全を確認して後退すべき注意義務があるのに、これを怠つたとして、他車ことに被害車が西側出入口において被告人車の後退燈を確認しえないこと(この点についても前叙のとおり事実の誤認がある)を前提として右のように注意義務を認めているのであるが、右のような事実の誤認および注意義務の内容の点において一部誤りがあるとしても、結局原判決も、現場は駐車場内であり、いつ進入または移動する車両があるかも知れないことが予想されるからとして、被人車を後退させるに際しては、後退燈による合図のみでは不十分で、警音器を吹鳴し、自車の左右後方を注視し周囲の安全を確認して後退すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠つたとしているのであつて、本件注意義務および過失の内容においては、結局原判決の認定は正当であり、前叙のような事実の誤認等も判決に影響を及ぼすものではないというべきである。

次いで、右過失と原判決認定の被害者の傷害(本態性高血圧症亢進)の結果との間に刑法上因果関係が認められるか否かについて検討するに、被害者は本件事故の当夜からいらいらした気分で眠れず、頭痛もあるので、その翌日である昭和四六年一月三〇日丸川和太医師の診察を受け、血圧測定をしたところ、最高一九六、最低一一二の血圧値を示し、その際同医師より本態性高血圧で安静加療二週間を要する旨の診断を受け、同年二月八日の血圧測定でも最高一九〇、最低一一〇の血圧値を示していたが、さらに同月一五日、腰痛、左足のしびれ、全身倦怠感、不眠症を訴えて古元重光医師の診察を受け、同医師より腰部打撲、腰椎捻挫、高血圧症と診断されて即日入院し、同年六月五日まで入院治療を受けた結果、血圧は次第に下降してきたことが明らかである。しかしながら、被害者はすでに本件事故の約三ケ月前である昭和四五年一一月一日にも鼻血が出、頭が重いところより丸川和太医師の診察を受け、血圧測定の結果、最高二〇〇、最低一一〇の血圧値を示し、血および本態性高血圧症と診断されているのである。もつとも、このときは降圧剤の注射、内服薬の投与などの治療を受けた結果、翌二日には最高一六四、最低一一〇の血圧値となり、その後も降圧剤を使用して治療を継続したところ、同月中の最高値、最低値は、それぞれ同月四日が一七八―一一〇、同月五日が一六六―九六、同月一三日が一六四―九四、同月二五日が一六六―九六であり、その間一応の治療効果があがつていたことも事実であるが、もともと本態性高血圧症は、その原因が不明な病気で、現在の医療では完治不能とされており、投薬などの治療を継続する限りその間一応血圧下降の効果はあがるが、治療を止めれば再び血圧が上るという性質のものであること、降圧剤服用による効力持続時間は、一日三回投与の薬については一回につき四、五時間、二回投与の薬については一回につき六時間ぐらいであること、寒さ、興奮、疲労、不眠は一般に血圧をあげる原因になりうることなども明らかであるところ、被害者は昭和四六年一月初め頃から本件事故当時までは降圧剤を服用していないこと、昭和四五年一一月本態性高血圧症と診断されて以来同年中は軽い仕事をする程度でぶらぶら過していたが、翌四六年一月に入つてからは従前どおり普通に仕事をしていたこと、また自動車の運転もできるだけ控え、運転する場合も近距離に限つていたのに、本件事故当日は久しぶりに比較的遠距離を運転したものであること、しかも当時は厳寒期であつたこと、本件事故の態様も前叙のとおり時速一五ないし二〇キロメートルで走行する被害車に被告人車が時速三キロメートルの遅速で一メートル余り後退して衝突したもので、これによる被害車の物損も比較的軽微であることなどからみて、これによつて被害者の心身にそれほど大きな衝撃を与えたものとも考えられないこと、本件事故直後も、被害者は被告人らに対し身体の方は別段異常はないと告げていること、当審証人小河原春雄の尋問調書によると、被害者は本件事故当日帰宅するまで興奮しており、帰宅してからも家族に事故の模様やその後の経過を話したりして気が立つていたというのであるが、被害者が興奮したり、気が立つていた原因は、本件事故直後現場で双方が被害弁償につき二、三〇分にもわたり話し合つたが結局被害者の新車提供の要求が拒絶されたこと、その後も被害者の妻や代理人が被告人の勤務先に赴いて右同様の要求をくり返し求めている事実に徴すると、被害者は本件事故に遇つたことそのことよりも、むしろその後の示談交渉が自己の意のままに運ばなかつたことに興奮、立腹していたとも考えられることなどがうかがえないことはないのであつて、これらの事情を綜合勘案すると、前叙のとおり被害者の本態性高血圧症が昭和四五年一一月中は一応治療効果をあげていたものの、翌四六年一月以降は降圧剤の服用もせず、かつ仕事を平常どおり行なつていたこと、時期も血圧には悪い厳寒期であることなどの悪条件が重なつて本件事故直前において被害者の血圧はすでに相当高度に上つていたところへ、さらに本件事故後の示談交渉が思いどおりにならなかつたことのいらだち、興奮、ひいては不眠などの悪条件がつみ重なつて、本件血圧亢進の結果を招来したと考える余地も十分あるのである。原審証人小河原春雄の証言、当審における同証人の尋問調書によると、被害者は本件事故前の高血圧症はすでに完治していたとか、本件事故当時までに夜眠れないということもなかつたというのであるが、右証言および尋問調書の記載は原審および当審における証人丸川和太の各尋問調書の記載に照らしてにわかに信用できない。しかして、本件本態性高血圧症亢進が一過性のものであることは、前叙本態性高血圧症の性質に照らし明らかであるとしても、右血圧亢進に基因すると考えられる全身捲怠感、食欲不振などの生理機能の障害ないしは健康不良状態が本件事故後少くとも二週間以上持続していたこと(原審証人古元重光の尋問調書)を考慮すると、右傷害が所論指摘のようにきわめて軽微なものであるとはいえず、業務上過失致傷罪の予想する「傷害」に該らないとはいえないのであつて、この点の所論は理由がないというべきであるが、右本態性高血圧症亢進と本件事故との間の因果関係については、先にるる説示したとおりであつて、その間に刑法上因果関係を認めるに足る証拠はない。従つて、被告人が本件事故によつて被害者に安静加療約二週間を要する本態性高血圧亢進の傷害を与えたとの原判決の認定は事実を誤認したものであり、右の誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決はこの点において破棄を免れない。論旨は理由がある。

なお、検察官が原審第五回公判廷において起訴状記載公訴事実の「左側腰部挫傷等」とは「腰部打撲症、腰部捻挫、高血圧症、左側腰部挫傷」を意味するものであると釈明した右各傷害と本件事故との間に因果関係を認めるに十分な確証がないことは、原判決がこれを詳細に説示しているとおりであると認められるから、結局訴因に掲げられている受傷についての証明はない。

論旨第三点について

所論は要するに、被告人および原審弁護人は、原審において、本件事案については信頼の原則が適用されるべきであると主張していたのに原判決はこれに対し何らかの判断をしていないが、これは刑事訴訟法三三五条二項所定の判断を遺脱したもので、右違法は判決に影響を及ぼすこと明らかな訴訟手続の法令違反であつて、原判決は破棄を免れないというにある。

しかし、本件衝突事故につき被告人に過失があることは前叙のとおり明白であつて、いわゆる信頼の原則を適用すべき余地がないのみならず、そもそも右原則は、具体体的事実関係のもとにおいて、諸般の情況にかんがみ被告人に責められるべき過失があるかどうかの問題であつて、結局過失犯における犯罪構成要件該当性の有無に関する事実主張の問題に帰するものと解せられ、刑事訴訟法三三五条二項所定の主張には該らないというべきである。論旨は理由がない。

よつて、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に従い直ちに判決する。

本件公訴事実(変更後の訴因)は、「被告は自動車の運転を業務としているものであるが、昭和四六年一月二九日午前一一時零分頃、小型貨物自動車を運転し、時速約三粁で岡山市野田一丁目一三番二号岡山東芝商品販売株式会社敷地内を後退北進中、後退の合図をし、自車の左右後方を注視し、周囲の安全を確認するのは勿論、警笛を吹鳴し、徐々に後退すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、まん然後退した過失により、自車の左後部を東進して来た小河原春雄の運転する軽四輪乗用自動車の右側部に衝突させ、よつて同人に対し加療約三ケ月半を要する左側腰部挫傷等(原審第五回公判において、検察官は、前叙のとおり釈明)の傷害を与えたものである。」というのであるが、すでに説示したとおり、被告人が本件事故によつて被害者に本件傷害を与えたものと認めるに足る証拠はなく、従つて本件は犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法三三六条に従い被告人に対し無罪の言渡をすることとし、主文二項のとおり判決する。

(干場義秋 谷口貞 大野孝英)

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